お念佛からはじまる幸せ

2019年3月3日日曜日

源光院

久しぶりの京都である。泊まった宿の佇まいも懐かしい気がするし、天気も良くて、少しブラぶらした浄土宗宗務庁近辺も、変わっていない。というか、遥か50年近く前、浄土宗開宗800年のお手伝いをほんの少しさせていただいた頃から見れば、変わった。
その頃は宗務庁は知恩院の中にあって現在の宗務庁の建物はなく、黒門からの通りは、こんなに近代的ではなかった。西洋建築に間に何軒か残る、きれいにメンテナンスされた、寺院風の建物はなんだろう。看板がないのでわからない。うだつの上の、空気抜きの小さな屋根の上の屋根(建築でなんというのだろうか)の写真を撮る。
自坊の、本堂の、せめて夏の空気を上から抜いたら少しは涼しくならないかと、以前から悩んでいたから、この写真は参考になるだろう、お金がないことを除けば。夢を見るのに
費用はいらない。
建物の外観は、ほとんど昔どおりだが、中身はすっかりきれいになった源光院。開八のころは、知恩院・宗務庁の役職者の宿舎だった。黒塗りの高級車が止まっている。御法主猊下のお車か、宗務総長のお車か。
会議の中身は、地方調停委員長連絡会であり、お世辞ではなく、担当者の熱意が感じられる、優れた研修会であった。資料は別送して手元になく、細かい話はできないが、午後からの京都簡易裁判所の判事さんのお話もためになった。
国の調停制度と宗の調停制度の相違点という氏のご指摘は、さすがに鋭い。そもそも、多かれ少なかれ、利害関係人同士の中での、調停という公平性が最も要求される仕組みの中で、どの位、中立性・公平性が保たれるか、確かに最も留意しなければならない点だろう。同じ宗派のなかで、まるで利害関係がないかどうか、難しい問題である。
実例の資料にのっている話を、聞けばアホか思われるような紛議もご当人にして見れば、
真剣な問題なのだろう。外から観れば、まるで漫画のようだと気が付けば、問題はそれで解決するのだろうが。意地の張り合いを調停はできないし、そんなことに宗費を使うなといいたい。
判事さんのお話で、記憶に残ったのは、恋しい人に会いたいから、調停して欲しいと、国
の調停を何度も申し立てする人がいるとのこと。調停は出廷義務があるので、なんとかその場へ引張り出したいのが真意らしい。この話を聞いて、頭に浮かんだのは、病院へ通院
するのに救急車をタクシー代わりに使う輩がいるという噂を昔聞いた。
     恥を知らない人間は、諸々の禽獣と相異なることなけん。   遺教経

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