お念佛からはじまる幸せ

2019年3月27日水曜日

筆記具

万年筆が嬉しい。キーボードで入力するのは、苦痛である。生まれつきの、ローマ字民族ではい。パソコンが、アルファベット生まれであることを考えれば、いまのように、日本語を、自在に表現できる時がくるとは、思わなかった。
カタカナしか入力できず、電報のような、情報で我慢したのは、どのくらいの年月だっただろうか。さっき、ラジオで漫才やっていたが、「毎日どんどん進化するという四字熟語は?」「日進月歩」「違います」「なによ」「携帯電話」(笑い)
思わずにやり。パソコンもそうだ。ここまでの道のりは平坦ではなかった。W310から
始まって、W95、次から次へと、買わされて、機械は進化を続け、国民機9800シリーズがあり、アップル革命があった。
値段が半端ではなかった。アップルSE(初めてハードディスクがついた)のセットは、キーボード、マウス、プリンターで130万円した。かみさんには内緒で、ポケマネで買った。会社が買ってくれないなら、自分で買うさ。
For the left of us.残されたすべてのもののために。ジョブズの意気込みを感じた。ハイパーカードの使い勝手のよさは、今でも通用するとおもうよ。W3なんて、使えたものではなかった。バイナリー言語がわかるものは知らず、コマンドなんて頭に入るものではない。多分このわかりにくさを、キチンと学習して、将来に備えた者は、財をなしているのだろう。行く先の見当は、おぼろついても、それを、incomeにつなげるのは、やはり才能だろう。商いは別物である。人の心を掴まなければならない。
出版だろうが、手紙だろうが、パソコン叩いてメールでサ!、という時代になった。電話
はもう、迷惑道具と心得なければならない。かかってきた電話に、でるのには、頭を、電話モードに切り替える→受話器をもつ→相手によっては、演技する。ニコニコマークのどの顔にするか→情報を受取る→反応する→終わる→受話器を置く→頭を電話前の仕事のモードに切り替える。これを、AI並に動かしている最中に中断されるのは、私もいやだ。
携帯電話の番号を知っているのは、家人、親友、兄弟位なもので、SNSも、あまりのうるささに辟易する。
75歳にもなって、お誕生日おめでとう言われても、そらぞらしい。紙と万年筆で、原稿書いて、財をなした人たちは幸せだった。その前は、文房三宝で、国を起こした、中国の
故事もある。道具を通じて、人の心を動かすことの大変さは、いつの時代であれ、難しい。私の買える万年筆は、精々、2万円どまり。ペリカンとSAILORで楽しんでいる。

誤診 メデカル・ドラマ 第2弾

ー悪意なき過ち 決別の勇気ーがサブタイトル。コピーを作る人たちは、上手だね。まさにこの言葉に尽きる。
子供の病気、テーマは癲癇。病気の中身の詳しいことは、映画を見ていただくなくてはならない。ある日突然発作に襲われ、それはほんの、地獄への道の始まりにすぎない。近代
医学の誤謬ということで、本を書いたらどのくらい、具体的事例が集まるだろうか。
私の子供がこの病気になったらどうしよう。この子供の父親・母親のようになれるか。しかも、ここでも、天動説の中で、地動説を唱えなければならない。子供と向き合うのさえ
大変な中で、世間の「悪意なき過ち」と対決しなければならない。
まかり間違えば、牢屋に入れられるかも知れないのは、ガリレオ・ガリレイと同じだ。子供の病気は、手当すればするほど、段々悪化する。ルールがないなら、ルールを作ったほうが勝ちなのは、どこでも同じだろう。手当がないなら、手当を作ってしまう、この両親は。その究極の解決法が、なんと聖書、2千年も前にすでに、その解決方法が書かれていたのだ。教会と大学のコラボレーション。坊主と医者が結託しても不思議はない。命を救うためには。
私は、オカルト信者ではない。奇跡・秘跡・魔法・悪魔ETC.どれも信じない。それでも、癲癇は、断食と脂で治せという、キリスト様のご指示には、なにか、真実が隠されているように、思う。解決の道は、シンプルである。e=mc*cという公式のように。
近代医学は、科学の装いで、私たちを、だまし続けてきた。前頭葉摘出手術のことはカッコーの巣の上でについて、書いた。この「誤診」でも、天動説は迫害される。
たまたま、知り合いに、理解してくれる医者がいて、母親の熱意にほだされた、看護師が
いて、この子の命は救われる。近代医学の迫害から、逃れて。古代ローマ帝国の迫害から
逃れたキリスト教徒と何ら、図柄は変わっていないのだ。
天動説を唱える者に幸せあれ。悪意はない。そう信じているから。子供の頃からそう教えられ、そうだと思っているから。そうでないことを言う人は、ほんの少し、200年前には、悪魔だった。火刑に処せられた。転べば(信仰を変えれば)助けてもらえた。
常識、信念、信仰。一体なんだろう。
地動説で世の中を眺めれば、おかしな話は山ほどあって、テレビだ、マスコミだ、新聞だ、ネットだなどと騒ぎ立てるが、その中から、私はこれを、選択するという、自分の立ち位置をしっかり、作っていく必要がある。
この映画「誤診」は、優れた映画である。薬は問題解決にならない。西洋医学は、これか
らどう進むのだろうか。釈尊は、最後の瞬間まで、正念を忘れなかったと聞く。

2019年3月25日月曜日

カッコーの巣の上で メデカルドラマ第1弾

地球は動いていると言ったばかりに、牢屋に入れられた、ガリレオ・ガリレイ。地動説の先駆。周りより、先に進むと、出る杭は打たれるとか。洋の東西は問わないらしい。
医学の上でも、同じようなことは、沢山有るらしく、参考になる。自分の命は自分で守ろうということだろう。
標題の映画は、頭の手術の話である。この術式を発明した人は、ノーベル賞をもらった。
先の大戦のすぐ後頃、アメリカで、脳の手術が流行った。前頭葉という場所を取ってしまうという、手術でした。とても効果的ということで、この手術を考えた人は、ノーベル賞
をもらった。
これまでのノーベル賞で、最悪の医学賞といことになっています。手術された人は、人間ではなくなってしまうのだ。
その辺の経緯を、この映画はうまく説明してくれる。そうでなければ、日本でも行われていた、優生保護法に基づく、障害者の不妊手術と同じような、人権を無視した、医術が
正義の名の元に、堂々と行われていたという事実を、教えてくれる手立てが、一般の庶民では、手に入らない。
誰かが気がついて、ほんとかよ、それってちがうよなと、声を大きくして言ってくれて、はじめて、へーそうだったの、と知ることができる。ハンセンシ病もそうだった。
隔離政策が、正義だと考えた、その考えの大本は、一般庶民の、「常識」だ。
ガリレオが、地球が動いていると言ったとき、いや動くのは、天だという教会の信仰を
正義と考えた、庶民の常識が、後押ししたのだろう。
常識とはなんだろうか。なんとなくそうだ。そういうもんだろう。そうに違いない。そういう、常識・信念はどう形つくられるのだろうか。
確かに、この映画の主人公のような人物が、隣にいたら、随分迷惑かも知れない。破天荒なのだ。多動症かも知れない。様々な経緯から、主人公は、ロボットにされてしまったた。
フランス製のよい薬が出て、高価で危険を伴う手術の必要は、なくなったそうである。それでも、その薬がどの程度危険かは、何年もの人体への副作用を、検証してみなければ、わからない。
地球は動いていると、言い続けなければ、天が動いているのだと、全ての大衆伝達手段が
主張初めたとき、私達の、地球は動いているというつぶやきを無くしてはこまるのである。

2019年3月24日日曜日

バベットの晩餐会

映画の話である。1987年デンマーク MGM。デンマークの映画で、監督さんと思われる方のお名前が、アルファベットにない、発音記号のような字で、キャストもスタッフも
分からない。分からないが、素晴らしい映画であることは、間違いない。
食についての(テーマが食かどうか分からないが)映画では、私の中では、ベスト3に入る。ベスト1はこれ、バベットの晩餐会。ベスト2は、台湾映画「恋人たちの食卓」。さて、ベスト3は思い浮かばないので、未定ということにしておく。
時は、フランス革命の頃、天才料理人ともてはやされた、バベットは、夫も子供も殺され
映画の舞台の、海辺の寒村に逃れてくる。
その寒村には、マーチーネとフィリパという姉妹がいた。父親がメラン匕トンに因む(なんだかよくわからないが、ルターの宗教改革に関連する人名らしい)ある宗派の創立者で
村人から尊敬されていた。というところから始まり、狭い共同体の中での老人たちのせめぎあいや、この姉妹をめぐる恋愛事件やらが伏線になって、バベットの晩餐会が催される
経緯が説明される。
劇場映画のノーカット版では、船でバベットが大量の食材を運んでくるが、ウミガメを船
につないで、そのウミガメが、泳いでついて来たシーンが忘れられない。テレビ版ではどういうわけか、カットされている。動物保護か、絶滅危惧種への配慮か、知らない。
美味なるものを食するということは、悪魔の仕業であり、それに溺れることは、地獄への
近道と信じてきた、頑固な老人たちも、バベットの料理と美酒には、まんまとはまってしまう。フランス革命当時、カフェアングレという、料理店があり、そこで料理長だったバベットはいう。「カフェアングレでは、12人前の料理は1万フランでした。」せっかく
当たった宝くじを全部叩いて、当夜の客12人をもてなしたのだ。
客のなかには、出世して、デンマークの将軍になった、かつて、無頼の頃に、姉マーチーネに出会い、ひと目惚れし、結婚は、父親が許さず、心入れ替えて出世したローレンスもいた。彼将軍はいう、「これほどのアモンテリャードは飲んだことがない。」このシーン
を見る度、同名のシェリー酒で手に入りそうなものを発注してしまう。極上のものをいつか飲んで見たいと思いながら。1955年物バルケロソレラは、手が出ない。
妹フィリパが、バベットにいう。「貴方の料理は天国で天使にも気に入ってもらえるでしょう」と。感動できる料理ができるひとは、確かに芸術家であろう。ああ!魂を抉られるような、一品に巡り会える時を今日も夢見て、コロンボのチリビーンズでも作るか。

2019年3月22日金曜日

ラーメン

国民食ラーメン。いや、世界食ラーメンになった。大戦間もなくの、「欲しがりません勝つまで」が、記憶に残る戦中の標語だった時代にも、贅沢は敵だというポスターの「は」と「敵」の間に、素を入れた人物がいるという。贅沢は素敵だ。
こういうのを、ユーモアという。日本人全部が、戦中は、オーム真理教のようだったとか言った、東京大学の有名な先生がいたそうだが、なんとなく、納得できる感じだ。
そういう世間風潮の中で、贅沢は素敵だ言える人は、素晴らしい。これは、贅沢した者だろうこう言えるのは。贅沢の味を知らない者はこうは言えない。
国民放送の、毎朝の寸劇は、インスタントラーメンを発明して、資産家になった人物の一代記をやっている。世界中の、貧乏人でも、飢えなくてすむような、優れた発明であり、
還暦過ぎて、さすがにあまりこの手のものを、食することが少なくなったが、やはり、かなりの部分、お手軽な、廉価なもので、空腹を満たした思い出は残る。舌に、味が残っている。不味くはない、美味でもないという、まあ世の中の食いもんは、かなりの部分このランクに入るのだろうが、とにかく、手っとり速さが、売り物になった。
学生の頃は、仕送りは、2週間持てばいいほうで、昼・夜買いためておいた、チキンラーメンを手鍋で作り、卵と長ネギくらいは載せて、洗うのが面倒だから、手鍋で食う。飯は
釜と米と水があればできる。コスパは最高で、とにかく、腹は膨れた。学校帰りに、通り道の肉屋の親父が揚げてくれた、魚肉ソーセージを縦に2つ割した空揚げに、ウースターソースがあれば、大宴会だ。
まあ、日本人全部ラーメン評論家の資格をお持ちのようだから、あれこれ申しあげるつもりはないし、一体全体、日本中に、ラーメン屋は何軒あるのだろうか。あとで暇つぶしに
ネットで調べてみるか。
懐かしいラーメンは、新宿の柏木に、法務局があった頃、学校でて間もなく、少し働かせてもらった、法務局近くのラーメンが懐かしい。酢を掛けていただく。醤油味で、透明な
油は少し浮かぶ。この手のラーメンで、新宿のあと、後年、新潟市の北越高校のグランド
脇のラーメン屋が同じ味だったから、ラーメンにも流派があるとすれば、何流なのか。
どこかに、この手のラーメン屋があったら、教えて欲しい。
親父は、大学の寄宿舎のカレーの味を懐かしんで、どこにもないカレーを、自ら手作りして、とてもじゃないが、食えたものではなく、家人の顰蹙を買った。この歳になると分からんでもない。どこにも無ければ、作るしか手がない。どうやって作るのか分からない。
それでもやって見ようという人間が、世界に冠たるN食品の基礎を築いたのだろうきっと。

2019年3月14日木曜日

杉花粉症

昔、つまり、私が若かった頃、つまり、60年前に、杉花粉症があったか、なかったか知らない。杉の花粉が飛ぶ頃になると、涙が出たり、くしゃみが出たり、目が充血したりして、ご当人は大変らしい。
奥さんが杉花粉症になる方の、ご主人いわく、スギ花粉症は、大雪と同じで、雪が消えると何事もなかったのと同じように、花粉が消えれば、花粉症も跡形もなく消えてしまうと。うまいことを言うと感心したが、花粉症の」ご当人は、それどころではないだろう。
免疫のシステムが、どこかで狂うと、アレルギーや、アトピー性皮膚炎、免疫不全症候群
になるのだろうが、なんでそうなるのか、医学は解明できているのだろうか。
人間個体の免疫力は、人それぞれであり、強い人もあり、弱い人もあり、完全に壊れてしまっている人もある。
テレビ話題で恐縮だが、イギリスの若い女性が、自分の汗、涙、ブロッコリーを除く食べ物すべてに、アレルギー反応を起こすという症例が紹介されていた。
ブロッコリーしか食べられないというのは、尋常ではない。年齢も若く、体操の選手だとか。見るからに健康そうな彼女の免疫システムを改善するため、大腸の中の細菌群を分析
して、どういう細菌群が通常の人間と比較して、余っているのか、不足しているのか確認する。確認した上で、不足があれば、健康な細菌群を移植するらしい。早い話が、うんこ療法である。
腸内フローラというのは、学者先生によれば、地面の中の細菌群と同じで、彼らが元気なら、丈夫な作物が育ち、そうでなければ、やたら肥料で、大きくするしか方法がないという。多分、有機の肥料で育った植物と、化学肥料で肥太らされた作物では、丸で味が違う
のは、想像できる。食べ比べればすぐ分かることだ。
スギ花粉症はなぜ起こるのか。知らず知らずに、体内に蓄積された、科学物質により、人体が造反しているのだろう。もっと自然を大切にしなさいよ。人体ってすばらしいのよ。

2019年3月12日火曜日

お通夜

通夜に集まる人々は、何を思い、何を考えて、参集するのだろうか。僧侶の読経は、私の場合は、せいぜい30分。なんだか訳の分からない読経を、聞かされる方はたまったものではなく、30が限界かと思う。
せめて、その30分を、死者を弔い、お浄土への旅立ちを、しめやかにお見送りにおいでになったのか思えば、さにあらず。ひたすら、読経が続く間、私語などという、密やかな会話ならまだしも、まるで井戸端会議のような、喧騒が、読経の間続き、なぜか、終わりに近づくと、まっていましたとばかりに、喧騒が収まる。
昨晩は会葬者が120人程度のささやかな通夜ではあったが、90歳の女性をお送りした。あまりの喧騒に、さすがにこの所歳のせいで、読経を途中で中止して、私語を止めるよう注意する元気もなく、読経を終わって、弔電披露、法話と型どうり、進む。
法話の冒頭「土方殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の3日も降ればいい。坊主殺すにゃ刃物はいらぬ、後ろでおしゃべりすればいい。」とやった。何をしにここへきているのか。死者を
弔いにきているのではないか。犬でも猿でも、母親は死んだ我が仔を悲しむ。いくら90歳の老女であっても死者は死者。人間であるならば、しめやかに、お送りしようではないか。法話を用意したが、やる気がなくなった。終わり。
まあ、こんな説教・法話した坊主はいないだろう。腹が立つ。怒るな・転ぶな・風邪ひくなは、先代の、お得意標語だが、まず怒るなに抵触する。怒るなというのは、それが自らの体に、大変よくないことであり、あるいは癌発生の源かも知れず、心身にとって、決して褒められたことではない。
仏様を飾り、お花を供え、僧侶を招いての、法要である。田舎芝居だろうが、公民館の踊りの披露会だろうが、そういう場に生涯一度も遭遇したことがないとは言わせない位の年齢層が、集まって、なぜ読経が始まると、真夏のセミの合掌のような喧騒が始まるのだろうか。読経そのものに罪があるのか。ここに、戦後の日本の荒廃を見てはいけないか。
通夜式での、おしゃべり会は、他に例えると、田舎の温泉の、舞台で田舎芝居が始まり、
客は飲食を続け、出し物が面白ければ、少しは、手と口が止まるだろうが、長続きはしない。ワッと喋り出す。特に女性のお喋りは、暴力に近い。手での暴力ができない代わりに天は、口による暴力を女性に与えた。しゃべらないではいられない。ほとんど病気に近い。まあ、無口な女性などというのは、クリープを入れないコーヒーのようなものかも知れない。
                          2019.3.12

2019年3月5日火曜日

日々是好日

新潟刑務所所属新潟県教誨師会『日々是好日』Ⅱー教誨師がつづった受刑者向けコラム
第99話 日々是好日
日々是好日というと武者小路実篤氏の色紙を思い出す。あちらこちらのご家庭の、玄関先や居間、応接室などに飾られていた。野菜の絵などが、日々是好日の字に添えてあり、氏の独特の字体とともに、一種ほのぼのとした世界を作り出すところが、世に親しまれるゆえんであろう。
この色紙とともに、なぜか私は、若いころに、教科書で読んだ、有名な外国の詩人の言葉を思いだす。
     あげひばり空になき 神天にしろしめす すべてこの世はこともなし
そのような詩であったか、字句の記憶は怪しい。うん。生きているのも、悪くないぜ。そんな感想を懐いたことも、思い出になつかしい。
ところが世の中、それほど甘くないというか、厳しいというのか、実際は、日々是阿修羅のように、なかなかに、恐れ多い。
これを書いている、平成22年二月六日、新潟県は今年一番の寒波に見舞われて、寺の消雪パイプが故障した。腿までの雪をこざきながら、手動で、ポンプを作動させる。自然は厳しい。
世間も厳しい。相撲はもはや国技とは言えず、国際技となった。横綱といえば人もうらやむ大出世だろうに、名古屋場所中に大阪の新地を徘徊するほどの遊び人は、横綱の地位など、なにほどのものではないらしい。日本の国籍を取れば、親方にもなれようものを、それとて未練なく、ポンと捨ててしまった。
横綱引退の号外が出た日の夜、テレビではモンゴルの首都のマンホールから地下で暮らす子どもたちを取材した映像を流していた。
「マンホールチルドレン」というらしい。かつて「チャウセスクの子供たち」という言葉もあった。政治の貧困は、弱者を直撃する。
さりとて、なにかというと、自分のことはさておき、お前が悪い、世の中が悪い、世間が間違っている、環境がいけない、国家が冷たい、地球がせまい、宇宙がーーーー。
運や才能や時代のせいもあるだろうが、人として最低限の努力は続けなければ、進歩がない。
非才浅学を顧みず、宗務庁から特定布教師の辞令を戴いてからもうすぐ一年になる。小職なりに、教誨師の仕事をつとめさせていただいている。
ぺぺ(女性二人歌手)の心に染みるデュエット
  「♪♪せいいっぱいを 精一杯を 教えてくれて ありがとう♪♪」
は聞くたびに涙がでる。そうだよね。せいいっぱいみんな生きているんだよね。
  「♪♪元気だせよ 涙をふいて 元気出せよ 笑ってごらん 元気だせよ♪♪」
私の下手な講釈よりも、一期一会で一時間の時間空間を一緒に過ごして下さる仮釈放まえのみなさんの心にとどかないかなあと考えて、ぺぺさんには無断で(著作権はどうなるのだろうか)曲を使わせていただいている。
ホームページからぺぺさんへ、CD勝手に使わせていただくことの、ご了解をいただかなくてはならない。メールを打とう。きっと、そういうことならいいですよと言って下さるにちがいない。
なかなか、娑婆からはうかがうことのできない塀の中の生活を、書物という想像のなかでしか追体験できないものにとっては、月一回の、桂才賀師匠のお言葉をお借りすれば、「通い懲役」は貴重な体験である。到着した私を案内してくださり、お昼をいただき、部屋へ案内してくださり、規律礼の号令をかけ、一時間私の教誨のために、準備していただく刑務官の先生がたへの、感謝の言葉は尽くせない。

               日々是好日Ⅱ 平成24年6月20日 発行
                  発行人 新潟県教誨師会

















Intel Inside Acer Chromebook 11 White

快適である。
新しいクロームブックが届いた。
これほど簡単にパソコンを楽しむことができるのに、なぜ人々は、苦労したがるのだろうか。
スイッチ入れて、3分もすれば、日常使い慣れた、環境が立ち上がる。
iMacも使っているが、マックソフトは丸でご用がなく、すべて、クロームからたち上がる
アプリしか使わない。
いずれ、こうなるだろうと思っていたが、やはりこうなった。
googleの世界で遊んでいる。
世界政府というものがあれば、そこで作らなければならない、ソフトと作り続けているらしいが、やってくれ。
ここのところ、スマホがえらく高いようだが、もう少し、値段がこなれてくるま     で、待つ。
貧乏人にも、幸いあれ。
googleの肝っ玉のでかいところをみせて欲しい。
結局googleというおっぱいを貰わなければ、生きていけないのだろうから。
                                                                                                                          mar./05    2019

                         

2019年3月4日月曜日

お寺の鐘の試し撞き ゴーン


病気になった組織は段々腐る。腐り始めた組織を、生き返らすことは、なかなかに難しい。川の水を反対に流すようなもので、あの角さんでさえ、できなかった。田中大蔵大臣
当時、山一証券がおかしくなり、無担保・無利子・無期限などという、ウルトラCでも結局
山一は潰れた。嘘つきは泥棒の始まりというが、巨大損失を、東大出の秀才が、帳簿をごまかす方法を考えて、少しは延命したものの、結局、がんに抗がん剤とおなじように、死んだ。これを昔の流行語で「飛ばし」と言った。東芝の粉飾決算も同じこと。嘘。
日産
東芝
NEC
日立
シャープ
ソニー
三菱電機
NTT
東京電力
我が世を謳歌していた方々ではないか。なにかおかしい。なぜだかわからない。
グーグル
アップル
アマゾン
フェイスブック
マイクロソフト
etc.
元気がいい。なぜだろう、何がちがうのだろう。
インターネットなんて、流行るわけがないよと言っていた方々。経団連の会頭でさえ、メールで、連絡を取り合うと聞く。やっとか、それでもか。
蒸気機関ができても、馬のほうがいいという人がいてもかまわない、そのほうが、バランスがとれる。右向け右で、一人や二人、いやおれは上を向くと言った連中がうまい飯を食う。ジョブズ、ベゾス、インテルの親分に至っては、偏執狂しか残れないと言っているとか、いわぬとか。それにしても、お寺の鐘の試し撞き、ゴーン・・・・・
保釈金10億円
何事も過ぎたるは尚及ばざるがごとし、とか。
日産がだめになったのは、組合の責任だろう。国鉄も郵政も電電公社も、組合が潰した。
働かないで、給料が増え続けるならこんなにいいことはない。親方日の丸で、我が世の春を謳歌していた連中は、民営化の大波のなかで、多少抵抗は試みたものの、人生観世界観を消耗しながら、引かれ者の小唄を歌わざるを得なくなった。
郵政民営化は、現代政治の欣快事だ。民意のあるところを問うのが選挙であるなら、民意はあった。郵政民営化。
小池東京都知事選挙で、自民党敗退の都連幹部の責任は大きい。既得権の古顔が、物を言う度、10万票単位で、自民党票は減った。
韓国では、時代を読み、風の流れ、勝利者はだれかを、見分ける力が大切にされると聞いた。今、私達は、どう時代を読み、どう行動すればいいのだろうか。 8/27

冬の蜘蛛 私の母

   冬の蜘蛛 手足は動く 杖の先
蜘蛛の寿命は一年か。越冬できるのか。家の主(あるじ)のお情けで、取り忘れたような
巣に蜘蛛一匹。杖の先でそっとつつくと、手足はなんとか動くようだ。気温摂氏5度。
春まで命永らえると望んだ母。平成15年2月。
        病院の桜若葉が雪になり
             義母(はは)を送りし如月の朝
と、家内が詠んでくれた母は、享年80歳。
温もりの塊のような人だった。周りの人は皆幸せになれた。残念ながら、母の血よりも父親の性格が濃い私は、母ほど人を幸せにできない。幼い日、外で雪玉を作って手がかじかむと、炬燵の母に、後ろから、冷たい手を母の胸元に入れた、暖かかった。S字結腸がん第五ステージは、冬の蜘蛛だった。

インド インド インド(3)

確かにこの内容で、日本では恐らく入手できない代物だ。これを日本語に翻訳した先人に脱帽する。
旅は軽装に限る。赤い小さな物入れ一つで、なんとか旅を乗り切った。そのためには、成田のホテルに前泊し、温度差に耐えることができるであろうものだけ身につけて、スーツケースはホテルへ預ける。預かりませんというから、帰ってきたら、日中のルーム使用をするからというとOKです。荷物を預ける。本当に必要な最小限のものだけにして、カミソリも入れていない。中々に苦労する。沢山もつのは簡単だが、ぎりぎり削り落とそうとすると、難しくなるのは、文章つくりと同じようなものだ。人生の最後に、お棺の中へ何を
持っていくというのだろうか。一度入って見なさい。狭いから。その練習だと思えば楽しい。
おかげで、道中は楽だった。着ていたものも、途中で飽きたら、ホテルの売店で適当に間に合わせて、不要品はバスの中でドネーション袋に入れてくる。わがまま、贅沢といえば贅沢だろうが、命永らえて、戻ることができたのだから、多少のことには目を瞑ろう。
歳のせいだろう。帰って来たら足が張る、つる。疲労回復にマッサージ。体重は思ったより減っていない。時差のせいか、旅先の二日目くらいから、食がなくなる。スイーツだけは入る、ささやかに。カレーを食せなかったのは残念至極。あと2日もすれば、元に戻るだろう。
インドから帰ってすぐ、ベンガルの虎が絶滅したテレビ番組をやっていた。インドでは虎
は特別の存在だったのだろう。虎の骨が薬になる。密漁で絶滅した。他地域から雌雄番で
運んで来て、折角仲良くなったオスが、公園内の居住者に毒殺された。人間ろ虎との生死を賭けた戦い。ますますパイの人生の意味が重くなる。これを縁というのだろう。
自宅の本棚に、読みもしないのに買い込んでおいた、タゴールのギタンジャリが目についた。パイの英文も読まなくては。新しい英和辞書でも買い込んで、少し英語にでも挑戦しようか。あの仔犬のためにも。
                                                             2025/1/24

インド インド インド(2)

カジュラホでも収穫があった。インドの古い宗教があって初めて釈尊の出世が可能だったことがよく分かった。この辺のお互いが影響し合う様子はほとんどシームレスだ。ヴァカヴァッドギータや、ジャイ二ズムが阿弥陀信仰に直結する。釈尊の立ち位置も、ユダヤ教とキリスト教の間でのキリストの出現と同じだ。一神教は厳格な律で、特にイスラム教は原初的な暴力性と相まって、元の姿をなんとか止めようと努力しているように見える。
南伝佛教ではスリランカへ釈尊の行脚があったことになっており、微笑ましいが、浄土教
における、釈尊出世の本懐としての阿弥陀信仰と同じ事だ。
それでも南伝佛教では今もって、佛教に携わる人々が、パーリー語を読み書きできることの意味は大きい。比較して、チベットから中国へ、さらに韓国へ伝播した、我が大乗仏教
のなんと大らかなことか。ほとんど原始佛教の面影を留めない。
輪廻転生から解脱したい欲求の大きさが、岩を削り、塔を積ませたのか。生老病死を苦とし、永遠の命を求めて、国家プロジェクトとしての佛教政策を推進したのか。古代の王様
たちの心は測り難い。
子犬が死んでいた。カジュラホでは、ホテルの湯が出ない。11月のインドで、湯を期待するほうが無理である。夏の暑さの中で丁度よいボイラーが、気温が下がる季節に、日本人が期待する湯温まで温める能力はそもそも持ち合わせていない。手と足と顔と尻が洗える水で我慢するとしよう。
        明きらめる 風呂見つけたり カジュラホで
朝は涼しい。エントランスサークルの周囲の木に、ゴレイシャ鳥の声が、喧しい。朝のミーテングか。姿は見えない。数百羽はいそうだ。道に出て、右へ行く。いつも右へ行く。
子犬が道の真ん中で死んでいた。交通事故だろう。側道へ移す。自然に涙が出る。動物同士が食うか食われるかの戦いの中で死んで行くのは止むを得ない。自動車に轢かれて死んだのでは、それこそ犬死だ。枯れ葉をかけて弔う。少し離れた道半ばで、母親らしい犬が、私の子供に触らないでと、悲しく私を微かに威嚇する。この仔が死んだのは、お前さんの責任なのに。仔犬が甘えて乳を欲しがらないことが、不思議なのだろうか。
ホテルの本屋に『神の詩』「ヴァカヴァッド・ギータの真意」という副題のついた、日本語の本を売っていた。フロントの女の子がそれはフリーですというから、只で貰えると思ったら、ホテルから出発しようとするバスに乗ろうとする私の袖を引いて、本屋の親父がそれは俺の本だという。棚に返したら、安い安いというから、聞いたら600ルピー。
                    インド インド インド(2)続く

インド インド インド(1)

何事も三度唱えると叶うという。インド インド インド。何回でも行きたい。インド行きは、覚悟が必要だ。ツアー旅行でも、かなりリスクがある。リスクといえば、どこへ行こうとある程度のリスクはつきものだろうが、インドにはインド固有のリスクがある。そういう中で二度目のインド。
二度目のインドへの旅。旅行業者からの案内に反応して、元気な内にもう一度行ってみたいと思った。あの喧騒と混沌が懐かしい。どんな旅がま待つのだろうか。
往きの飛航は楽しかった、二つの意味で。ひとつは座った席の周りが空いていた。ふたつは途中から、前の列に座っていたインドの妙齢のご婦人が一つ間をおいた左隣の席に座り
直して、あなたはお坊さんですか?と尋ねてきた。私が前回仏跡の旅の途中で、インド更紗で一晩で仕立ててくれた、おみやげ物のクルタを着ていたせいなのか。どうして私がお坊さんと思ったのか聞くと、身なりだという。日本人ならこの格好を見てまず坊主だとは思うまい。
彼女は瞑想が好きで、あるマスターに就いて、瞑想を習っていたという。そのマスターも
故人らしい。小さなグループで学習しているとか。ソニーでシステムエンジニアーあるいはプログラマーをしているらしい。。ニューヨークと東京が仕事場のようだ。私が言葉に
詰まり、詫びると、この女性は、私は日本語ができませんという日本語しかできないと笑っていた。
私が昔、COBOLプログラムに触っていた頃を思い出した。プログラム言語を考えて、結果がでるまでの試行錯誤の中で、頭の中の状態は、祈りの時に似ているのかも知れない。彼女の頭脳がコンピューターソフトと、祈りの世界がどう共生しているか覗いてみたいような気がする。
もう一つの収穫は、席の前にある画面で、映画を観た。「パイの人生」とでも訳すのか。”Life of Pi"お子様ジャンルに入っていた。虎と少年の愛の物語。涙が出た。動物と人
の交流の物語は素直に感動できる。本は帰りに買った。デリーの飛行場にあった。DVDは帰ってきてアマゾンで買った。日本語の字幕がないと、言葉のやりとりのシーンは理解できない。これが家人への一番のおみやげかも知れない。
前回の佛跡の旅は釈尊のおわしました大地に立つ感動があった。誤解を恐れずに言えば、遺跡なんぞはどうでもよい。どれだけ「法」を思い続けることができるかが問題なのだ。今回は佛教遺跡が少なくてかえってよかった。
                      インド インド インド(1)続く

2019年3月3日日曜日

一流患者と三流患者

上野直人というドクターがおいでだ。NHKに出演していらっしゃった。アメリカのがんの治療では有名な病院に勤めながら、日本でも、公演されたりして、ご多忙のようである。
番組の中で「一流患者と三流患者」というテロップが、流れた。上野先生の御著書である。患者も一流から何流もあるのかと、つい反応してしまい、すぐアマポチする。
アマポチは私の造語で、アマゾンへ注文するため、すぐその場で、スマホから購入契約の
申し込みをすることである。購入契約の申し込みをするなどというと、えらく難しいが、
自分でも、何をしたのかわからない位簡単に、商品売買契約が締結される。お客の利便性
をとことん追求したからこそ、世界中が、アマポチで溢れている。ジェフ・ベゾスさんえらい。
さて、一流患者にはなれなくても、二流患者位は目指したい。まず、自分の病歴を記録しておく。
平成15年 もう少しで、肺気腫になるところで、危うくセーフ。禁煙。ただし、動き回ると息切れすることがある。
平成21年 膀胱がん 内視鏡でぽつん。
平成28年 膀胱がん 内視鏡でぽつん。
平成29年 4回内視鏡検査。
自覚症状 不定期に鳩尾の中に痛み。こめかみに痛み。胸の痛み。胃薬でおさまる。
コレステロール いろいろ勉強したが、この数字は気にしないことにした。
中性脂肪 これも気にしない。
血圧 年を取れば、ある程度血圧が高いほうが自然だろう。人は数字で生きているのではない。ガイダンス作りたいやつが作ればよい。要は覚悟の問題である。
食事 低糖質のものを食するように心がけている。
体重 56kg台ならよしとする。
体調 数字ではなく、自分がどう感じるかだ。旨味でも、最後は感性の問題である。
ロカボをよく噛み丈夫な体 腹八分目医者知らず ロカボ過ぎたるはなお及ばざるがごとし 健康長寿の三大標語。
怒るな 転ぶな 風邪引くな は健康長寿の脇三則。まあこれさえ守ることができれば、
あとは喜んで、往生できるように、日々の支度をおさおさ怠りなく実行。これは夢ではないから、実行しなければ、意味がない。これも夢と同じでほとんど費用はかからない。

源光院

久しぶりの京都である。泊まった宿の佇まいも懐かしい気がするし、天気も良くて、少しブラぶらした浄土宗宗務庁近辺も、変わっていない。というか、遥か50年近く前、浄土宗開宗800年のお手伝いをほんの少しさせていただいた頃から見れば、変わった。
その頃は宗務庁は知恩院の中にあって現在の宗務庁の建物はなく、黒門からの通りは、こんなに近代的ではなかった。西洋建築に間に何軒か残る、きれいにメンテナンスされた、寺院風の建物はなんだろう。看板がないのでわからない。うだつの上の、空気抜きの小さな屋根の上の屋根(建築でなんというのだろうか)の写真を撮る。
自坊の、本堂の、せめて夏の空気を上から抜いたら少しは涼しくならないかと、以前から悩んでいたから、この写真は参考になるだろう、お金がないことを除けば。夢を見るのに
費用はいらない。
建物の外観は、ほとんど昔どおりだが、中身はすっかりきれいになった源光院。開八のころは、知恩院・宗務庁の役職者の宿舎だった。黒塗りの高級車が止まっている。御法主猊下のお車か、宗務総長のお車か。
会議の中身は、地方調停委員長連絡会であり、お世辞ではなく、担当者の熱意が感じられる、優れた研修会であった。資料は別送して手元になく、細かい話はできないが、午後からの京都簡易裁判所の判事さんのお話もためになった。
国の調停制度と宗の調停制度の相違点という氏のご指摘は、さすがに鋭い。そもそも、多かれ少なかれ、利害関係人同士の中での、調停という公平性が最も要求される仕組みの中で、どの位、中立性・公平性が保たれるか、確かに最も留意しなければならない点だろう。同じ宗派のなかで、まるで利害関係がないかどうか、難しい問題である。
実例の資料にのっている話を、聞けばアホか思われるような紛議もご当人にして見れば、
真剣な問題なのだろう。外から観れば、まるで漫画のようだと気が付けば、問題はそれで解決するのだろうが。意地の張り合いを調停はできないし、そんなことに宗費を使うなといいたい。
判事さんのお話で、記憶に残ったのは、恋しい人に会いたいから、調停して欲しいと、国
の調停を何度も申し立てする人がいるとのこと。調停は出廷義務があるので、なんとかその場へ引張り出したいのが真意らしい。この話を聞いて、頭に浮かんだのは、病院へ通院
するのに救急車をタクシー代わりに使う輩がいるという噂を昔聞いた。
     恥を知らない人間は、諸々の禽獣と相異なることなけん。   遺教経