お念佛からはじまる幸せ

2019年11月4日月曜日

死に方教室

令和元年11月2・9日合併号の「週間現代」の新聞広告に「よく死ぬための教養」という特集の文字が目に入った。同週刊誌は、週間ポストと並んで、繁殖の終わりそうな、あるいは、もう終わった♂共が、袋とじのヌード目当てに購入する雑誌のようで、いささか
買うには気が引けないこともない。
金額も、出はじめの週刊誌の値段を知るものには、久しぶりに本屋で払う、金額には隔世の感がある。いや、昔のことは止めましょう。
「よく死ぬための教養」は、良く書かれていると、思う。週刊誌情報というのは、狗肉牛
刀のような、タイトルと中身が不釣合いで、興味津津、一読がっかりが多いが、日頃死につきあっていると、この記事、結構読める。
いや、この週刊誌が「死」を特集すると言うことが、少し前なら、この雑誌の編集者は考えもしなかったのではなかろうか。「死」を特集できる、時代に来ているということだろう。それで、週刊誌が売れるということだろう。本合併号に限らず、この手の、人間の死亡についての、豆知識的な、特集を組む週刊誌、広告を目にするようになった。

先代は、よく週間ポストと週間現代を買っていた。旅の多いひとだったから、電車の中で読むには手頃なのだろう、話の種を探しているのだろうくらいに、思っていた。週間文春と週間新潮は勿論、定期購読だった。
先代読み残しの週刊誌を、ぱらぱらめくり読みしても、記事内容で、これは残そうかと思うような記事にはまず、出会わなかった。タイトルが、仰々しく、中身が希薄な、お金払ってでも買いたいような記事には遭遇しなかった。

まあ、自分のほうが、準備不足だから、先生に出会わなかったのだろう。なにかと「死」
にお付き合いすることが多く、いやでもおうでも、「死」を考えざるを得ない年齢になったということなのだろう、自分自身が。

ここのところ、4つほど葬式が続き、95歳・100歳・99歳・92歳が続けば、アホでも、100歳時代がもう来ているのだと、悟らざるをえない。自身でいえば、あと25年も生かされてしまったら、どうしようかと考えてしまう。

川端康成・三島由紀夫・西部邁もう一人いえば、桂枝雀、みんな自死した。助さん・格さんもういいでしょうとばかりに。だれにも迷惑かけず、死期を悟った象さんのように、ひっそりと、姿を消す方法があれば、教えてほしいものだ。

看護助手が、酸素マスクを外して、実刑を12年食らって、出てきてから、無罪になりそうだという新聞記事。「彼女は安楽死を選んだ」というNHKの特番。中村仁一先生の「大往生したかったら医療にかかわるな」の売れ行き。「葬式はいらない」という新書。「死にたい老人」新書。情報は多い。死を経験したものは皆無である。臨死体験は死の経験ではないだろう。

全部面白い。自分の立ち位置も知らないで、のほほんと日常業務に埋没することができる人々は幸せである。46億年(地球の年齢)と弥勒菩薩様の56億7千万年を足すと、100億年の宇宙の中で、2500年前のお釈迦さま、850年前の元祖様なんて、つい先ごろの話だろう、今ここで、説法しておいでなのですと、お檀家には話している。