お念佛からはじまる幸せ

2019年8月27日火曜日

友へ

携帯電話を度々変えて、しかも番号が変わり、ご迷惑をお掛けします。おまけに、今使っている携帯電話は、ドコモの「カード携帯」で、ヨコ×タテ×アツミが55ミリ×90ミリ×
5ミリ。重さ50グラムという、小さいものです。
どうしてこれにしたかというと、
1.ガラケーの時代は終わった。
2.スマホも色々やってみた。
  (1)フェイスブック
  (2)インスタグラム
  (3)ツイッター
  (4)その他
  SNSも性分に合わない。なにか連絡が来ると、一々イイネ、イイネと、アホかいな。
3.東京へ行って、道を歩く、電車に乗る。店に入る。駅へ行く。立っていても、腰掛けていても、必ずスマホを取り出して、何事か始める。明らかにスマホ依存症だ。もうやめよう。棺桶の中まで、スマホ持って行けないよ。
というとき、ドコモがやってくれました。
京セラと、こういうニーズもあるだろうということで、電話できればいいじゃないか、あとはそこそこの機能でいいだろうというコンセプトで、ドコモが作ってくれました。こんなもの売れないよと思っている、電話メーカーさんは、時代の風を読めない大企業病です。使いものにはならないが、ウェブも見ることができるし、必要最小限の機能は備えています。
なによりうれしいのは、スマホの電磁波が、脳に与える影響が話題になっていますが、それを最小限に抑えようと努力しているようです。充電器が少し大きいのが玉に傷ですが、
一台買って、使い勝手がいいから、もう一台、家内が専用にしています。
本体が小さいため、当たり前ですが、字が小さい。電話する番号は、普通の遠近両用メガネで間に合いますが、貴兄からのショートメールを読むには、読書用のメガネプラス拡大鏡が必要です。月々の料金も安い。いとこと話をすると結構長く、そういう方式の料金。
それでも、重たいスマホ持って歩くのに比べれば、なんと楽なことか。京セラの稲盛さんは、米日の電話料金の余りの違いに、競争しない社会は潰れるだろうと、KDDIを立ち上げたそうです。
スマホだ、タブレットだ、ノートパソコンだと、結構オタクっぽいことをしてきましが、
世の中をどう動かしたいのか、政治と企業と資本の論理に、右往左往しないように、少し
斜に構え、皮肉っぽく世の中の波風を見て行きたいと思っています。
  字が小さくても読みます。ときにはメール下さい。     2019/0827

生かされて

なんだか分からない写真です。自宅の裏の、側溝の、グレーチングの下50センチメートルに咲いた花です。花の名前は知りません。どなたかご存知のかた、教えて下さい。
反射して少し水があるのがわかります。水と光と空気があれば、このように、まるで刑務所のなかの囚人のような環境でも、花が咲いていることに、感動します。
グレーチングを外して花を救助?して、地植えしてあげたいような気にもなりますが、私たちも、孫悟空とお釈迦様の手にひらのお話のように、大宇宙の中、地上というグレーチングになかで、水を空気と光をいただき、生かされているのでしょうか。
生かされているといえば、NHKの夕方のラジオ放送で、全盲のセーラー岩本光弘さんのインタヴューをお風呂の中で聞きました。体を洗うのを忘れる位、素晴らしいお話でした。特に、日本に近づいてから、低気圧にあい、6メートルを超える波のなかで、エレベーターのように上がったり下がったりして、12メートルのヨットがもみくちゃになり、生きた心地がせず、死ぬかと思ったというくだりは、感動ものです。
辛坊治郎さんと一度、日本からアメリカへ横断に挑戦し、クジラと衝突して失敗した経緯があり、横断成功は、本当の喜びだったでしょう。
生死を分けるような冒険を経験した人にしか語れないような、言葉が出てきます。人間本当の難儀を経験しないと、生きる喜びを語ることができないのかもしれません。
東から受ける太陽の暖かさで、西の方向を知って、航行するという言葉など、落涙ものです。普段、阿弥陀様は西方浄土においでです、さあ行きましょうなどということは言っていても、首筋に受ける太陽の暖かさで、西方を意識しているでししょうか、普段の生活のなかで。目が見えないからこそ、言える言葉です。
目をつぶって、首筋に受ける太陽の熱で、西方を思いましょう。極楽浄土を思いましょう。心の底から、ああ生きていてよかった、私は生かされていると、岩本さんは思ったそうです。クジラ事件のあと、心ない人たちから、かなりきついバッシングを受けて、それでもめげずに、この大冒険を成功させた、岩本さんに、それこそ心から、おめでとうを贈ります。2019.08.27

2019年8月22日木曜日

昭和28年5月10日花祭り

昭和28年5月10日は、小衲御年9歳、小学4年生の春。三条仏教会主催の花祭りが東本願寺別院を会場に行われました。西別院から、東別院までの数キロの道のりをおねりするのです。その西別院は今はありません。いまは、鍛冶道場という市の施設になっています。
そのころの花祭りにBGMがあったかどうかは定かではありません。
♪昔も昔三千年 花咲におう 春八日 響き渡った一声は 天にも地にも われ一人♪
花祭りといえばこの、花祭り行進曲がついてまわります。戦後の軍隊映画に、軍隊行進曲がついてまわったように。軍隊行進曲が、パチンコ屋のテーマミュージックになったころから日本はおかしくなりました。
新潟の、一地方の町三条の、仏教会の花祭りに、本物のぞうさんが、歩いたのですよ。
写真の出どころは、2006年3月3日 株式会社郷土出版社 「三条加茂今昔写真帖」です。勝手に使ってすみません。
この写真をアップしたのは、ぞうさんを見て頂きたいのと同時に、ぞうさんの左側を少し離れて歩く、少年にご注目頂きたいのです。御年9歳にして、この花祭りは俺が仕切っているんだという、少年の気概を感じて頂きたいのです。小衲です。
ぞうさんから少し離れて、右後方を歩く紳士は、当山大壇越であった、まるよしの故吉田熊次、花祭り奉讃会長さん。そのまるよしさん、今はありません。
吉田さんと弊山の先住とは懇意で、花祭りへは、多額のご寄付を、毎年頂戴し、物心両面に渡るご支援を、長い間頂戴しました。
文化を育てるには、お金がかかります。予算化されない事業は、絵に書いた餅です。おなかはふくれません。傘を持ってお歩きのお坊さま、そのすぐ後ろのかた、ぞうさんの左後方のお坊様。どなたでしょうか。いずれも故人でしょうか。
西別院から東別院へのおねりの途中、いもやさんという屋号の八百屋さんの店先のりんごを、このぞうさんが鼻先で上手に掴んだなどという思い出も、弊山先住と協力して、花祭りを盛り上げてくださった、三条市内の故住職さん方々のお顔とともに、懐かしく思いだされるのは、後期高齢者の仲間入りした、小衲の感慨でしょうか。
三条まつりには必ずついて来た、サーカスもいつか無くなりました。そのサーカスから来てくれたぞうさんが、いまどうしているのかなあなどと考えてしまいます。
小衲の頭の中では、長崎の原子爆弾の後の、死んだ兄弟を背負った少年の写真と、このぞうさんと一緒に歩く私の身なりがダブります。
同時代を生きた者同士にしかわからない、時代の空気、匂い、皮膚感覚は、ラジオを流れる「訪ね人の時間」とか「街頭録音」とか「大相撲中継」などの記憶とともに、団塊の世代が死に絶えるとき、地上から忘却されてしまうのでしょうか。

2019年8月20日火曜日

CDを贈ります

ご迷惑でしょうがCDを贈ります。
何のCDかというと、燕三条FMで
放送された音声のCDです。
弊山では、毎年、6月の終わりの日曜日
に、お地蔵様の縁日を行っています。
6月初旬でしたか、燕三条FMの担当者
から、番組取材のため、来山したい旨
お電話いただきました。
6月25日(元祖様ご命日)においで
と約束しました。当初。
約束してから、後から気がついて、再度
電話しました。
6月23日にお地蔵様の縁日祭と
「おるごーる♪お話音楽会」が予定されて
いるから、日曜日の仕事になってあなたに
は悪いが、23日を取材して、足りなけれ
ば、後から追取材したらどうかという、
提案を快諾していただき、追加の取材もなく
このCDを、送っていただきました。デジタ
ル化石の小衲は、詳しい人のお力で聞くこと
ができました。
7月中にすでに放送された分です。
各位に聞いて頂きたいのは、お孫くんの声
です。単独インタビューを受けていたらし
い。母親も、私も知りませんでした。
小さくても、燕三条FM立派な公共放送で、
そこにお孫くんの声が残りました。
燕三条FMのファンがどの位おいでかわかり
ませんが、何人かお聴きになったでしょう。
ご多用の各位にお耳をお借りして申しわけ
ありませんが、私の漫談インタビューの次
の回にお孫くんがでてきます。
燕三条FMのTTさん。アイサポートのKY
さん。ありがとうございました。特にTT
さんには、改めて、こちらのデジタル音痴
にお付き合いいただきました。ありがとう
ございました。
結果が出て考えたことは、早く、アンドロ
イドとIOSのアプリを作ってもらい、きちん
としたスタジオで録音した音声を、スマホ
で聞けたらいいかな、命日になったら、
お経を再生して下さい。お仏壇もお坊さん
もいらなくなりますよという次世代の様子。

2019年8月4日日曜日

1945.08.09.AM11:02

長崎に原子爆弾が投下されたあと、一人のアメリカ軍曹さんが、被爆後の写真を撮りました。裸足の少年が、背中に幼子をおんぶして、凛々しい顔で立つ写真です。
百万言を費やすより、一枚の写真が、戦争の悲惨さを雄弁に物語るとしてフランシスコ教皇が、お配りなった写真でもあります。

勝手に BSTBS さんには、無断で、ホームページから写させていただきました。

ジョー・オダネルさんのコメント
佐世保から長崎に入った私は小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男たちが目に入りました。男たちは60センチほどの深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みした死体を石炭の燃える穴の中に次々と入れていたのです。10歳くらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広場で遊んでいる子供たちの姿は当時の日本ではよく目にする光景でした。しかしこの少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに5分か10分も立っていたのでしょうか。白いマスクの男たちがおもむろに近づき、ゆっくりと葬るように焼き場に熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い立ち
ました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です。炎を食い入るように見つめている少年の唇に血がにじんでいるのに気づいたのは。少年があまりキツくかみ締めているため、唇の血は流れることもなく、ただ
少年の下唇ににじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去って行きました。

この少年に、私たちは何を言えるでしょうか。丸刈り、裸足、半ズボン。10歳ほど私の先輩の少年は、ご存命でしょうか。ご存命なら85歳くらいになっておいででしょう。

この少年の写真を拝見していると、なにやら世代も、様子も、自分自身を投影しているようで、他人事とは思えません。戦争の記憶がない私の、この写真は原点です。

極東裁判は裁判でさえなく、インドのパール判事が、いみじくも喝破されているように、ただの、戦勝国による、戦勝国同士の、ガス抜き、復讐芝居でしかないことは、明々白々です。戦争犯罪を云々するのであれば、非戦闘市民に無差別の空襲で、日本国中を焼け野原にし、死臭の中を連合国空軍兵士でさえ、飛行するのがイヤになり、挙げ句、無差別空襲を止めさせるための、米国軍内の覇権争いに、英国チャーチルの「原爆投下OK」を得てのジェノサイドでした。これを戦争犯罪と言わずに、戦争犯罪などどこにあるのでしょか。