お念佛からはじまる幸せ

2019年8月4日日曜日

1945.08.09.AM11:02

長崎に原子爆弾が投下されたあと、一人のアメリカ軍曹さんが、被爆後の写真を撮りました。裸足の少年が、背中に幼子をおんぶして、凛々しい顔で立つ写真です。
百万言を費やすより、一枚の写真が、戦争の悲惨さを雄弁に物語るとしてフランシスコ教皇が、お配りなった写真でもあります。

勝手に BSTBS さんには、無断で、ホームページから写させていただきました。

ジョー・オダネルさんのコメント
佐世保から長崎に入った私は小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男たちが目に入りました。男たちは60センチほどの深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みした死体を石炭の燃える穴の中に次々と入れていたのです。10歳くらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広場で遊んでいる子供たちの姿は当時の日本ではよく目にする光景でした。しかしこの少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに5分か10分も立っていたのでしょうか。白いマスクの男たちがおもむろに近づき、ゆっくりと葬るように焼き場に熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い立ち
ました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です。炎を食い入るように見つめている少年の唇に血がにじんでいるのに気づいたのは。少年があまりキツくかみ締めているため、唇の血は流れることもなく、ただ
少年の下唇ににじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去って行きました。

この少年に、私たちは何を言えるでしょうか。丸刈り、裸足、半ズボン。10歳ほど私の先輩の少年は、ご存命でしょうか。ご存命なら85歳くらいになっておいででしょう。

この少年の写真を拝見していると、なにやら世代も、様子も、自分自身を投影しているようで、他人事とは思えません。戦争の記憶がない私の、この写真は原点です。

極東裁判は裁判でさえなく、インドのパール判事が、いみじくも喝破されているように、ただの、戦勝国による、戦勝国同士の、ガス抜き、復讐芝居でしかないことは、明々白々です。戦争犯罪を云々するのであれば、非戦闘市民に無差別の空襲で、日本国中を焼け野原にし、死臭の中を連合国空軍兵士でさえ、飛行するのがイヤになり、挙げ句、無差別空襲を止めさせるための、米国軍内の覇権争いに、英国チャーチルの「原爆投下OK」を得てのジェノサイドでした。これを戦争犯罪と言わずに、戦争犯罪などどこにあるのでしょか。

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