お念佛からはじまる幸せ

2019年7月7日日曜日

諸行無常

極々普通の意味で、変わらないものはない、全ては変化する、あらゆる物事は、進行形であるという意味の。諸行無常である。変わらないものはない。
夏、施餓鬼のシーズンだ。いくら考えても、ご本尊様の向かい正面に、施餓鬼壇を作り、
二河白道のように、茣蓙をひき、参拝者は、河に向いて、お参りする。横向きにお参りするのは、なにか、美しくない。面白くない。
美しくなく、面白くないのは、椅子席にしたせいだと、気がついた。畳の上に座っているのであれば、本尊→施餓鬼壇と場面に応じて、向きを変えればいいだけで、収まりはよい。美しい。椅子だと、顔だけ西を向いたり東を向いたり、体は斜め座りになる。
畳の上から、椅子になるのに、どれくらいの日時が必要だったのか。自分が正座できなくなって、初めて気がついて、本堂も椅子にしなければならない。そういえば、ある檀家総代さん(故人)が寺の法要にお参りする、特に御婦人のご高齢者を、笑顔交えて「足投げ出しばば」と表現されていた。
椅子もなく、座布団も出さないで、仕方がないから、柱に背中を保たれて、足投げ出しばばにしか、なれないではないか。それでも寺参りして頂いた、あのひと、この人、往生された皆さんが懐かしい。せめて座椅子くらい用意すればよかったと、反省しきり。
椅子にしたら、邪魔になったのが、お膳と座布団。リサイクルもきかず、買い手もなく、
結局ゴミ。お膳は中黒の塗り物だった。食器は現役だが、お膳は、一部、教区の研修会時、有志ご寺院から引き取っていただいた。お使いなのだろうか。
座布団も布団やさんへ電話したら、市役所の環境衛生課へ電話してくださいと言われた。
早い話、ゴミにしかならない。
生活様式が変わると、物事が、変化して行くということであれば、なにも施餓鬼壇を外陣に作らなくても、内陣にあげてしまえばいい。毎年、施餓鬼壇を解体して、仏具庫にしまうので、バラシと組み立てはなれている。多少手間でも、令和にもなったし、今年から、内陣に施餓鬼壇を作ってみよう。
そのほうが、お参りの姿として、迷いがない。美しい。法式のビデオを見ると、古くは内陣に施餓鬼壇を組んで、お参りしていたし、先代が、施餓鬼壇を購入するまでは、内陣だけで、終わっていた。多分、他宗の施餓鬼などを見て、そのほうがカッコいいということの、模倣が一般的になった。ただしそれとて、畳、おすわり方式の中で、有効であって、
椅子式になれば、どう考えても、うまくない。座面回転式の椅子を揃えなければ、ならない。まあ、無理な話であり、無理が通れば道理は引っ込む。衣屋の餌食になるな。
早めに組みたてておいて、7月28日新盆施餓鬼で、リハーサルして、8月11日の本番
に備えよう。なんとかなるさ。
維那は大金の代わりにドラを使おう。あとは割笏だけ。鳴り物はいつものとおり。暑くて
うるさいから九下三通で終わり。木魚は始末が面倒で、今年からやめる。冷房のない本堂に100人を超える人数に入って頂くだけでも、暴挙だ。できるだけ短く、終わらせたい。それにしても、涼しくてよかったねえと終わりたい 。
施餓鬼の意味も、阿難尊者のオッカ様が逆さ吊りになってなどという話をいつまで続けるのだろうか。逆さ吊りの刑が、実施されているのであれば、いくらか意味もあるが、ただの昔話は、ふーんで終わり。むしろ、飽食を戒め、断食を奨励し、健康寿命を少しでも長くして行こうよという、「餓鬼推進」あるいは「羅魔断」運動を起こすべきだろう。病は口からが、先代の口癖だった。そういえば、親父の米粒の量は少なかった。この歳になって、ようやく、低糖質に目覚め、健康寿命と平均余命の差、ほぼ10年、寝たきり被介護を回避したいと、念じながら、実行している。  夏が来るああ夏がくる夏がくる。

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