お念佛からはじまる幸せ

2019年3月4日月曜日

インド インド インド(2)

カジュラホでも収穫があった。インドの古い宗教があって初めて釈尊の出世が可能だったことがよく分かった。この辺のお互いが影響し合う様子はほとんどシームレスだ。ヴァカヴァッドギータや、ジャイ二ズムが阿弥陀信仰に直結する。釈尊の立ち位置も、ユダヤ教とキリスト教の間でのキリストの出現と同じだ。一神教は厳格な律で、特にイスラム教は原初的な暴力性と相まって、元の姿をなんとか止めようと努力しているように見える。
南伝佛教ではスリランカへ釈尊の行脚があったことになっており、微笑ましいが、浄土教
における、釈尊出世の本懐としての阿弥陀信仰と同じ事だ。
それでも南伝佛教では今もって、佛教に携わる人々が、パーリー語を読み書きできることの意味は大きい。比較して、チベットから中国へ、さらに韓国へ伝播した、我が大乗仏教
のなんと大らかなことか。ほとんど原始佛教の面影を留めない。
輪廻転生から解脱したい欲求の大きさが、岩を削り、塔を積ませたのか。生老病死を苦とし、永遠の命を求めて、国家プロジェクトとしての佛教政策を推進したのか。古代の王様
たちの心は測り難い。
子犬が死んでいた。カジュラホでは、ホテルの湯が出ない。11月のインドで、湯を期待するほうが無理である。夏の暑さの中で丁度よいボイラーが、気温が下がる季節に、日本人が期待する湯温まで温める能力はそもそも持ち合わせていない。手と足と顔と尻が洗える水で我慢するとしよう。
        明きらめる 風呂見つけたり カジュラホで
朝は涼しい。エントランスサークルの周囲の木に、ゴレイシャ鳥の声が、喧しい。朝のミーテングか。姿は見えない。数百羽はいそうだ。道に出て、右へ行く。いつも右へ行く。
子犬が道の真ん中で死んでいた。交通事故だろう。側道へ移す。自然に涙が出る。動物同士が食うか食われるかの戦いの中で死んで行くのは止むを得ない。自動車に轢かれて死んだのでは、それこそ犬死だ。枯れ葉をかけて弔う。少し離れた道半ばで、母親らしい犬が、私の子供に触らないでと、悲しく私を微かに威嚇する。この仔が死んだのは、お前さんの責任なのに。仔犬が甘えて乳を欲しがらないことが、不思議なのだろうか。
ホテルの本屋に『神の詩』「ヴァカヴァッド・ギータの真意」という副題のついた、日本語の本を売っていた。フロントの女の子がそれはフリーですというから、只で貰えると思ったら、ホテルから出発しようとするバスに乗ろうとする私の袖を引いて、本屋の親父がそれは俺の本だという。棚に返したら、安い安いというから、聞いたら600ルピー。
                    インド インド インド(2)続く

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