お念佛からはじまる幸せ

2019年3月12日火曜日

お通夜

通夜に集まる人々は、何を思い、何を考えて、参集するのだろうか。僧侶の読経は、私の場合は、せいぜい30分。なんだか訳の分からない読経を、聞かされる方はたまったものではなく、30が限界かと思う。
せめて、その30分を、死者を弔い、お浄土への旅立ちを、しめやかにお見送りにおいでになったのか思えば、さにあらず。ひたすら、読経が続く間、私語などという、密やかな会話ならまだしも、まるで井戸端会議のような、喧騒が、読経の間続き、なぜか、終わりに近づくと、まっていましたとばかりに、喧騒が収まる。
昨晩は会葬者が120人程度のささやかな通夜ではあったが、90歳の女性をお送りした。あまりの喧騒に、さすがにこの所歳のせいで、読経を途中で中止して、私語を止めるよう注意する元気もなく、読経を終わって、弔電披露、法話と型どうり、進む。
法話の冒頭「土方殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の3日も降ればいい。坊主殺すにゃ刃物はいらぬ、後ろでおしゃべりすればいい。」とやった。何をしにここへきているのか。死者を
弔いにきているのではないか。犬でも猿でも、母親は死んだ我が仔を悲しむ。いくら90歳の老女であっても死者は死者。人間であるならば、しめやかに、お送りしようではないか。法話を用意したが、やる気がなくなった。終わり。
まあ、こんな説教・法話した坊主はいないだろう。腹が立つ。怒るな・転ぶな・風邪ひくなは、先代の、お得意標語だが、まず怒るなに抵触する。怒るなというのは、それが自らの体に、大変よくないことであり、あるいは癌発生の源かも知れず、心身にとって、決して褒められたことではない。
仏様を飾り、お花を供え、僧侶を招いての、法要である。田舎芝居だろうが、公民館の踊りの披露会だろうが、そういう場に生涯一度も遭遇したことがないとは言わせない位の年齢層が、集まって、なぜ読経が始まると、真夏のセミの合掌のような喧騒が始まるのだろうか。読経そのものに罪があるのか。ここに、戦後の日本の荒廃を見てはいけないか。
通夜式での、おしゃべり会は、他に例えると、田舎の温泉の、舞台で田舎芝居が始まり、
客は飲食を続け、出し物が面白ければ、少しは、手と口が止まるだろうが、長続きはしない。ワッと喋り出す。特に女性のお喋りは、暴力に近い。手での暴力ができない代わりに天は、口による暴力を女性に与えた。しゃべらないではいられない。ほとんど病気に近い。まあ、無口な女性などというのは、クリープを入れないコーヒーのようなものかも知れない。
                          2019.3.12

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