お念佛からはじまる幸せ

2015年5月17日日曜日

インドへの道 2

インドへの道(つづき1)
 それでも、南伝仏教では今だに、仏教の携わる人々が、パーリー語を読み書きできることの意味は大きい。比較して、チベットから中国へ、さらに朝鮮半島から日本へ伝播した、我が大乗仏教のなんと大らかことか。ほとんど原始仏教の面影を留めない。
 輪廻転生から解脱したい欲求の大きさが、岩を削り、塔を積ませたのか。生老病死を苦とし、永遠の命を求めて、国家プロジェクトとしての仏教政策を推進したのか。古代の王様の心は計り知れない。
 仔犬が死んでいた。カジュラホでは、ホテルの湯が出ない。11月のインドで、湯を期待するほうが無理である。夏の暑さの中で丁度よいボイラーが、気温の下がる季節に、日本人が期待する温湯まで水温を上げる能力を、ホテルのボイラーは持ちあわせていないだろう。旅の中で、満足な湯がでたのは、真新しいホテル一つだけだった。ここでは手と足と顔と尻が洗える水で我慢するとしよう。
       明きらめる 風呂みつけたり カジュラホで
 仔犬が死んでいた。朝は凉しい。エントリーサークルの周囲の木に、ゴレイシャ鳥の声が喧しい。朝のミーテングか。姿はみえない。数百羽はいるのではないか。何か会話をしている。道に出て、右に行く。いつも右に行く。仔犬が道の真ん中で死んでいた。交通事故だろう。側道へ移す。自然に涙がでる。動物同士が食うか食われるかの戦いの中で死んでいくのは止むを得ない。自然の摂理なのだろうから。自動車に轢かれて死んだのでは、それこそ、犬死にだ。枯れ葉をかけて弔う。少し離れた道の半ばで、母親らしい犬が、私の子供に触らないでと、私を微かに威嚇する。この仔がしんだのは、お前さんの責任なのに。仔犬が甘えて乳を欲しがらないことが、不思議なのだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿