お念佛からはじまる幸せ

2015年5月16日土曜日

インドへの道 1

インドへの道
 二度目のインドへの道。旅行業者からの案内に反応して、元気な内にもう一度インドへ行って見たいと思った。あの喧騒と混沌が懐かしい。どんな旅が待つのだろうか。
 往きの飛行機は楽しかった、二つの意味で。ひとつは座った席の回りが空いていた。ふたつは途中から、前の席に座っていたインドの妙齢のご婦人が、私の席(一番窓側)一つ
間をおいた隣の席に座り直して、あなたはお坊さんですか?と尋ねてきた。私が、前回仏跡の旅の途中で、お土産屋さんが一晩で仕立ててくれた、クルタを着ていたせいなのか。
どうして私がお坊さんだと思ったのかと聞くと、身なりだという。日本人ならこの格好を見てまず坊主だとは思うまい。
 瞑想が好きで、あるマスターに就いて、瞑想を習っているのだという。そのマスターは故人らしい。小さなグループで学習しているとか。仕事を聞くと、ソニーでシステムエンジニアーあるいはプログラマーの仕事をしている。ニューヨークと東京が仕事場のようだ。私が言葉に詰まり、詫びると、この女性は、私は日本語ができませんという日本語しかできないと笑っていた。
 私が昔、COBOLプログラムに触っていた頃を思い出した。プログラム言語を考えて、結果がでるまでの試行錯誤の中での頭の中に状態は、祈りの時に似ているのかも知れない。だからこそ、寝ることもわすれてハッカーたちは、夢中になれるのだろう。コーラを飲みながら、ハンバーガーで空腹を満たしながら。
 もう一つの収穫は、席の前にある画面で、映画を見た。「パイの人生」とでも訳すのか。”Life of Pi”. お子様ジャンルに入っていた。虎と少年の愛の物語。涙が出た。動物と人の交流の物語は素直に感動できる。本は帰りに買った。デリーの飛行場にあった。DVDは帰ってきてからアマゾンで買った。日本語の字幕がないと、言葉のやりとりのシーンは理解できない。これが家人への一番のおみやげかも知れない。
 前回の仏跡の旅は釈尊のおわしました大地に立つ感激があった。間違いなく、そこに今も釈尊はおわしました。今もなお、法をお説きなっておいでである。誤解を恐れずに言えば、遺跡なんぞはどうでもよい。どれだけ「法」を思い続けることができるかが、問題なのだ。今回は、仏教遺跡が少なくてかえってよかった。
 カジュラホで収穫があった。インドの古い宗教があって初めて釈尊の現出が可能だったことがよく分かった。この辺のお互いの影響しあう様子はほとんどシームレスだ。ヴァカヴァッドギータや、ジャイニズムが阿弥陀信仰へ直結する。釈尊の立ち位置も、ユダヤ教とキリスト教の間でのキリストの出現と同じだ。
 一神教は厳格な律で、特にイスラム教は原初的な宗教教義と相俟って、元々の姿をなんとか、今にその姿を努力しているように見える。南伝仏教は、スリランカへ釈尊の行脚があったことになっており、微笑ましいが、浄土教における釈迦出世の本懐としての阿弥陀信仰と同じだ。つづく

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